丹波篠山行ってきました
新年明けましておめでとうございます!
私生活色々とKILL済になったので、去年の6月に先輩のフォロワーさん(先輩のフォロワーさん…?)と一緒に行ってきた丹波篠山(笹山兵太夫オタクの聖地)のレポ更新です。
結論から述べると、篠山めちゃくちゃ楽しかったです。病むたびに行きたい。
私達は京都を出発地に、
京都〜尼崎(JR京都線新快速 姫路行)、尼崎〜篠山口(JR宝塚線区間快速 篠山口行)で行きました!
後半からぐんぐんと山の中に進んでいくので、フォロワーさんと、山コンプ抱えてる兵ちゃんの萌話で大爆笑しながら吸い込まれて行きました。
加藤、兵ちゃんに琵琶湖見せつけてやってよ…
電車に揺られること2時間。
JR篠山口駅!ここで一旦降ります。
ちなみに、駅に降りるときは一礼して靴を脱がないといけません。嘘です。
なんとも…………………素朴で、自然豊かで、素敵な駅。
ここで生まれれば、絶対にいい子に育つこと・間違いなしです。
バス乗り場の時刻表が掲示されているガラスが割れてイヤホンがぶら下がっていたのが趣深くて、すでに笑いすぎで過呼吸になるかと思いました。
この街、すでに面白すぎる。
篠山口駅から篠山武家屋敷などのある地点までは、神姫バス(篠山営業所行)で20分くらいで、300円です。二階町で降ります。
電車とバスに揺られて、2時間半、やっとやっとたどり着いた丹波篠山。
笹山先輩本日はお世話になります。
さて、私たちが巡ったコースは以下の通りです。
篠山城跡
http://withsasayama.jp/history-museum/
篠山の歴史についてわかりやすく知ることができました。ここは行くべき!
↓
https://www.hyogo-tourism.jp/spot/0987
江戸時代、青山家に仕えた下級家臣安間家の武家屋敷です。室町の趣とは違いますが、当時の家財道具や建物、古文書や武具などが展示されていました。食器話で盛り上がった…
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河原町妻入商家群
https://www.hyogo-tourism.jp/spot/result/968
↓
青山歴史村
https://www.hyogo-tourism.jp/spot/0972
↓
https://www.hyogo-tourism.jp/spot/974
丹波篠山市歴史美術館では、明治3年から使われた裁判所に入ることができました。
我々は、年齢操作1年成長の賞罰・有なので、しっかり寄って、法廷で裁かれてきました。終身刑。
皆さんも篠山に寄った際には、己の罪を裁かれに立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
(丹波篠山に伝わる武具や絵画なども展示されていて、内部自体も装飾がシックで素敵でした。)
全て徒歩圏内なので、1日あれば余裕で周れます。
このコースだと、効率よくグルッと周れるかな〜と思います。参考までに。。。。
お天気も良く、街並みも綺麗なので自然の中でのお散歩が好きな人はリフレッシュしまくれます。
我々は、花を愛で鳥を愛し自然に耳を傾け、成長1年の罪を重ねながらお散歩しまくりました。
篠山で外せないのはやっぱり「篠山城跡」ですね。篠山の土地の歴史をまるっと知ることができるので、勉強になりました。めちゃくちゃわかりやすいパネルと模型がたくさん展示してあるので、是非行ってください!
お昼は『丹波篠山郷土料理 懐』(https://tourism.sasayama.jp/kai/)さんで、ぼたん鍋をビールと一緒にいただき、ぽっかぽかのねむねむになりました。真昼間からオタクと飲酒、良すぎ。
猪鍋めちゃくちゃ美味しかったです!(私の足…)
さて、、、
戦国期の篠山を知る上でのキーワードは「波多野氏」「八上城」のようです。
ざっとまとめると、
篠山城築城以前、戦国時代の多紀郡(現在の篠山市)は波多野氏という豪族が支配していました。
波多野氏は石見国出身で応仁の乱(1467〜1477)の戦功により多紀郡を与えられ、八上城を築き居城としましたが、その後、1578年の第二次丹波攻めでは第二次丹羽攻めでは明智軍に八上城は徹底的に包囲され、一年に渡る壮絶な籠城の末、八上城は落城し、波多野氏は滅亡します。波多野氏滅亡後、多紀軍は光茂が支配し、光茂滅亡後は五万石で八上城に入城します。松平康重の代になると、1609年から篠山城の築城が始まり、八上城は廃城となります。
また、城に関しては天守閣などが無い分、実戦に特化したかなり攻め辛い造りになっているそうで、、、
現存している石垣も、死角攻めまくりの内部構造も、超無骨で格好良かったです。(大先生ポイント)
中世、丹波国多紀郡であった丹波篠山市には70以上の山城が残っているそうで、その土地の戦国史と密接な関わりを持っているそうです。
色々調べてみるのも面白そうなので、篠山の歴史と一緒に、そのうち取り上げてみようと思います。
丹波篠山、尼崎巡礼のついで…というには少し距離が遠いので難しいかもしれませんが、見応え抜群な丹波篠山、寄ってみても良いのではないでしょうか…!個人的にはまた行きたいな!と思います。
お土産に買ったお茶・栗・豆、全部美味しかった。
現地で飲んだ丹波篠山茶と丹波黒豆の甘納豆も美味しすぎました。黒豆甘納豆、絶対食べてください。
THANK YOU FOR EVERY SASAYAMA.
適当なまとめで今年最初ブログを飾ってしまいました。お目汚し失礼しました。
本年も何卒よろしくお願いいたします!
首実検儀礼についてのまとめ
お疲れ様です!きぬです。
先日、図書館で『中世武家の作法』という面白そうな本を見つけたので、首実検とは何か、ということについて自分なりにまとめてみようと思います。
どうでも良いのですが、私、今まで「首実験」だと思ってました。「実検」なんですね。
恥ずかしい………。。。。自分の無知を晒します。勉強になりました。
首実検とは
まず私の中で「首実検て、結局なに!?」となったので、まとめます。
本来の意は大将が敵の物頭や諸奉行クラスの騎馬武者の首を検分することの意。
これに対して、敵の大将または貴人・高位の人の首をの検分を「対面」、そして歩卒の雑兵らの首の検分を「見知」と称して区別していたのだが、広義には、首の検分の総称として「首実験」という語が使用されていた。
また、討ち取った敵の首を持ち帰る=論功行賞のための材料・証拠品とされており、
『保元物語』『平治物語』に源為義や藤原信西が「首実検」をされた記述が見え、『平治物語絵詞』には、信西の首が検非違使に引渡され、獄門すなわち獄舎の門の棟の上に掛けられ、晒し首にされている場面がある。(古来から首は戦果として用いられていた。)
1441年、将軍足利義教を殺害した赤松満祐の首実検の場合では、政所執事伊勢邸の西向でなされた。
これらの資料では、
「儀式は、首を検分する大将は門内の二、三間奥に置かれた床几に腰を下ろす。首をお目にかける役人は門外に控える。門もないところは幕を打ち、中を巻き上げて内外の隔てをこしらえた。」
といったように、敵勢に首を奪還されないように警戒した中で行われた、という事がわかった。
・首実検を行う場所は、多くは主戦場の近辺の寺などが当てられた。
・室町期には、首実検の作法が完成されていた。
ということも記されていた。
討ち取られた首
戦場で討ち取られた首は、手柄の騎馬武者の鞍の取付の緒につけられて運ばれた。その際、大将首は左、葉武者の首は右に付けられた。
生捕にされた侍は、弓弦または箙の上帯で縛められ、軽輩には白縄が掛けられる。彼らの首を切る時は、敷皮を通常とは逆に白毛を後ろにして敷いた上に座らせ、首筋を前に出させて切る。
首化粧の手順⚠️ちょっとグロ
集められた首は、首実検に備えて首化粧が施される。(首装束ともいわれる)
手順は、
まず、首を水でよく洗い血や土などを洗い落とす。
↓
髪を整えて元結にて髻(もとどり)を高く結い上げる。
↓
顔に傷がついていれば、米の粉を振りかけて傷を抑える。
(お歯黒や白粉・紅をつけた高貴な身分の首であれば修復を行う)
↓
「何某これを討取る、何某の首」と2行に書いた首札を鬢(びん)に結びつけ、首台か首坂の上に据える。
(夏季に首の切り口がジュクジュクする時は、ぬるでの葉を下に敷く)
以上が首化粧の作法のようです。
首実検の儀
さて、いよいよ戦国作法・『首実検の儀』についてです。
(前提として、儀式に参列する全ての将兵は鎧・兜を着用し、弓を持ち、矢を負い、出陣と同様の行装を整えます。これは、死者への礼儀とされています。)
右手に扇を持って床几に腰をかけた大将の後または左右には、部下の将兵たちが敷皮の上に両膝を伏せて前に足を組んで座す。
首の奏者(首をお目にかける人)は、少し距離を隔てて右の方に控える。
↓
弓持の役人が座を立って弓を大将に奉る。
↓
大将は持っていた扇を腰に差し、左手に弓を受け取ると、直ちに弓杖をつく。
この時弓は弦を内側にして、少し右の方へ向けられている。
↓
弓持の役人が左へまわって退き、本座へ帰る。(以降、首実検の始まり)
↓
奏者は首を台に据え、左の手にて首を取り、右の手で台を持って御前に進む。(この時の持ち方は、親指で耳を押さえ、台は他の指で持つ)
御前で両膝を立てた蹲踞(そんきょ)の姿勢でかしこまり、首を台に据えたまま下に置く。
↓
あらかじめその場に用意された砂を少し摘んで首にまきかける。(「砂加持」という儀礼。)
↓
髻を右手に取って引っ提げて、左手を切り口に当てながら、大将の顔をそっと見る。この時、正面をお目にかける事はしない。
↓
この時、奏者は、首を討ち取った者の名前を披露し、見知っている首であればその名前を申し上げる。高貴な身分の首の場合、まず首の名前を申し上げる。
首の奏者と大将との距離は、およそ三杖(弓三張の長さ)。
↓
大将は、床几を立ち離れ、首を左に見ながら弓を射るように足踏みをし、左手に弓杖をつき、右手位太刀の柄をかけ、少し刃を抜き掛け、左の目尻にて首を一見する。
↓
奏者は首を台に戻し、左右の手で首と台を持ち、左へ巡って退出。
同時に大将も左からまわって床几に戻って腰をかける。
↓
弓持ちの役人が進み出て弓を受け取って退出すると、大将は扇を残らず開き、左手に持って三度大きく仰ぎ、扇をたたんで右手に持ち直す。
↓
首実の儀、終了。
また、身分秩序が重んぜられていた武家社会であった室町期、敵の首の身分で扱いや作法にも相違があった。
例えば、
・首につける首札の材質は、大将には桑の木、その他には椿か杉と定められていた。
・首札のサイズも、大将には長さ5寸幅2寸、諸士には4寸に1寸8分、雑兵には3寸6分1寸余と、それぞれ規格が異なった。
・首台も、高貴な首は供饗に据え、大将級の首は檜で作られた1尺2寸で四方に4寸2分の高さの足がついた首台に置かれた。諸士の首は、6寸で四方に2寸ほどの桟足を打った首板に置かれた。
・首実検そのものも、諸士以上の首はいかに数が多くても一つ一つ全ての首に大将に首実検の儀礼が取られたのに対し、雑兵の首は、「幕外に西向きにひとまとめに並べ置かれ、その前を大将が馬で北から南へ三度往復して検分する」と、簡略されたものであった。
→首実検は、味方の戦果を確認し、士気をますます高めるとともに、武運拙く散った敵の戦死者に対する最大限の表敬の意が込められた儀礼であった
首実験を終えた首の行方
首実験を終えた首は、獄門にかけて晒し首にされたり、敵方に送り返されたり、残った首は北に集めて捨てられた。(「北」の字は「にぐる」(逃げる)と読むからで、東の方に捨てることはしないらしい。)(どういうこと!?)
晒し首になるのは、謀反者や悪虐非道を行なった者に対する見せしめの場合が多く、戦場の勇者の首のほとんどは敵方に送り返す慣わしであった。
送り返すとき、首を白絹で包み、高さ1尺2〜3寸、直径8〜9寸の首桶に納めて送った。首が錦の直垂を着た大将であった場合は、その錦衣を引き裂いて用いることもあった。
これも、死者の生前の身分・地位に対する配慮であった。
まとめ
長!複雑!難!……という感じで、もし私が戦国時代の武人だったら泣いています。最早、首切られるポジションだったと思います。
シビアだな〜室町ライフ。。。。。。。。よかった、平成に生まれて。
しかし、首実検が、死者への敬意が込められた儀礼であった事がわかりました。おそらく、他の戦国作法にも大切な意味づけがされているんでしょうね、、、、、
そんな作法を学ぶ環境を整備している忍術学園、戦場という舞台を見据えているようで、悲しいような…かっこいいような…
でも、首実検だけでなく、様々な戦国作法を日々学んでいらっしゃる作法委員の皆さん、そして忍者の皆さん、かっこよくてキラキラしているだけでなく、スマートで最高ですね。
以上です。個人的には勉強になりましたが、内容が複雑且つ未知の世界すぎて、本をそのまままとめる形になってしまいました。読みづらかったかと思います。すみません…!
ここまで見てくださりありがとうございました!!!!!!!!!作法かっこい〜!
【参考文献】
忍たま年代考察②〜火器(鉄砲)の観点から〜
お疲れ様です。きぬです。
さて、先日に引き続き、今日も兵ちゃんの生きた時代が一体どこだったのか考えていこうと思います。
第2回は、『室町期および戦国期に称されていた鉄砲』(主に火縄銃について)から、年代考察を進めてみましょう。がんばるぞ〜!
↓前回の記事はこちらです。忍たまの舞台は1467年〜1573年なんじゃないか?と考察しました。
※次回以降も年代考察の際に作品内の色々なヒントを深掘りしていこうと考えています。もしかしたら結論に矛盾が出てしまうかもしれません。総まとめで答えを出すまで、矛盾してもとりあえず情報を揃えてみようと思います。
さて、作品では、虎若や田村先輩、佐武鉄砲隊をはじめ、火器を扱う個性豊かな最高キャラクターが登場します。これだけヒントがあるなら、決定的な何かがわかる気がします。燃えるぜ!
↓今回は以下のような形で進めていきます。
①日本での火縄銃の伝来について
②年代別に見る鉄砲の歴史
③鉄砲のメリットとデメリット
④①〜③を踏まえた考察とまとめ
では、よろしくお願いします!!!!!
①日本での火縄銃の伝来について
まずは、日本への火縄銃伝来についてです。
日本人が最初に火器と遭遇したのは、1274年元寇時、元軍が用いた「てつはう」とされています。しかし、この時に火器が日本に伝来した、という資料は見つけられませんでした。まあ、敵方の武器だしな…見せてくれないですかね…
そんな 日本への鉄砲伝来は、1543年種子島に漂着したポルトガル人が持ち込んだ火縄銃2丁がきっかけとされています。教科書ではこうだった。こうでしたね。
しかし、今回調査を進めていくと、元寇以降で日本人が火器を体験した記録は1409年まで遡れるという話を発見しました。1543年以前に日本人鉄砲使ってたってこと!?
以下に一部引用します。(林屋辰三郎『日本の歴史12 天下統一』)
●『碧山日録』
1468年、応仁の乱のさなか、和州之匠が営中に来て、「発石木」で石を飛ばし、当たったところをことごとく破壊。
東軍・細川勝元の陣には「串楼・層櫓、飛砲・火槍、戦攻之具」が完全に装備されていた。
⭐︎発石木(はっせきぼく)…応仁の乱で用いられた炸裂弾投射装置。命中率は低くて射程距離や殺傷能力は低かった。
→当時、戦では長槍や弓といった遠距離武器が主力。鉄砲はまだ発射音による馬への威嚇など、補助的な形でしか使われていなかった。
●小田原の玉滝坊という山伏が、1510年に渡来した鉄砲を堺で見て、これを関東に持ち帰り、屋形氏綱に献上した。
⭐︎1510年時点で、堺に鉄砲が伝来している。献上品にするあたり、まだ珍しい代物だったんですかね。「渡来」というように、国内での生産はまだだったみたいです。
●『甲陽軍艦』
村上義清が上杉謙信に「1510年に渡来した鉄砲を50人に持たせ、1人に3発の玉薬をあてがった…しかし、武田晴信との戦には負けた」と語っている。
⭐︎50人に3発渡してたのに。負けた……マジで戦力的には微妙だったんですかね。てか、3回しかチャレンジできないのかなりきついですね。まだ、硝石が希少な品だったということですかね。(後に国内で作れるようになり、一気に鉄砲の普及が進みます)
以上から、簡単にまとめます。
⇨銃火器自体は1510年には日本に伝来していた。
⇨火縄銃は1543年に種子島伝来。
⇨1543年火縄銃伝来以前、1510年にすでに堺に鉄砲が取引されており、戦力として用いられていた。
⇨しかし、戦力的には微妙(?)だった。
②年代別に見る銃火器の歴史
次は、忍たま舞台と仮説を立てている1467年〜1573年の間を30年ごとに区切って、『鉄砲』の遍歴をざっくり見てみます。
※本章では、鉄砲全体で見ています。火縄銃については『火縄銃』と記載。それ以外は『鉄砲』と記載。
1467−1500
・1468 応仁の乱
⭐︎中国から輸入されていた初期の鉄砲。威力が弱かった。また、火薬の材料である硝石の入手が日本で手に入らなかったために難しかったらしく、火器の使用率は低いものだった。
1500ー1530
・1510 甲陽軍鑑
⭐︎村上義清が上杉謙信に「1510年に渡来した鉄砲を50人に持たせ、1人に3発の玉薬をあてがった…しかし、武田晴信との戦には負けた」と語っている(前章参考)。未だ、戦力としてはイマイチだったか…?わかりませんが…
・1512 堺商人の橘屋又三郎が国内生産開始
⭐︎古来から古墳築造のために鍛冶屋や鋳物師が多く住んでいた堺は日本最大の鉄砲産地となり戦国大名に鉄砲を売りさばき、大きな利益を上げた。さらに滋賀県の国友村にも鉄砲の生産地は広がる。→日本の匠的に銃を鋳るのは結構簡単だったみたいで、大量生産できてたらしい。強!
1530ー1573
・1543 種子島に火縄銃伝来
・1549 黒川崎の戦い
⭐︎日本で初めて火縄銃が実戦に持ち込まれたとの、最古の資料存り。
・1549 加治木城攻め
⭐︎この戦いで使用されたのは、ポルトガルで献上された火縄銃の現物とされてます。
・1550 第二次川中島の戦い
⭐︎東国甲斐(現在の山梨県)の武田軍で火縄銃300挺が用意された。
・1558~ 武田信玄が軍役として鉄砲隊を賦課
⭐︎戦力になると認めた!?てことか…?武田信玄の動向を見ると、一足先に鉄砲の威力に目をつけてたみたいです。
※鉄砲が主力となったのは1575長篠の戦いとされている。
以上から、
・堺で鉄砲の国内生産が始まったのは1512年。以降全国に鉄砲が普及した。
・1543年に種子島に火縄銃が伝わり、1550年には戦で大きな戦力として大量に取り扱われた。
⇨学園で火器を扱うのは、戦力として認められ国内生産が始まり鉄砲が手に入りやすくなった1512年以降が妥当だと考えられる。
鉄砲の利便性に気づいた後にさらに高性能の火縄銃が手に入り用いられたとも考えられるので、火縄銃が普及してすぐの世界線の可能性としても十分考えられますね。
佐武衆は火縄銃の普及以前にも存在していたのか、火縄銃を途中から取り入れたとなるともっと解像度上がると思うので知りたすぎる。狂いそう。
③鉄砲のメリットデメリット
前章で少し触ましたが、戦国時代の火器の普及には『硝石が国内で作れるようになった』ことがデカいそうです。これ以降、日本全国に普及し、戦に大きな影響を与えたようです。
●鉄砲のメリット
・爆音で敵をビビらせ、敵の士気を削ぐ
・弓よりは威力が強い
・他の武術と異なり、槍と同様短期間での訓練で使いこなせるようになる
・上手い人は当たる(そっか…)
●鉄砲のデメリット
・射程距離や威力が弱い
・常に火縄で火を用意しなければ射撃できない(雨降ったら終わる、風吹いたら詰む)
・発射速度が遅い
また戦国時代に紀伊国(現在の和歌山県・三重県南部)を中心に活躍した忍者集団「雑賀衆」は、火縄銃を多数所持して強大な武力を誇っていたことで知られている。
⇨ようは、『使い方次第で重要戦力になる武器』ということですね。なので、虎ちゃんの実家がマジで強い戦闘集団ってことで劇場版での超かっこいい登場シーンとして会場沸かせてたってことがわかりますね。頼もしすぎる。若太夫、お疲れ様です!
④まとめと考察
忍術学園がいつから「鉄砲は戦力になる!学園に取り入れよう」と踏んで火薬委員会を設立したり学園に取り入れたのかはわかりませんが、その効果を知ってるから取り入れたのか…戦場を経験している先生方、鉄砲とやり合ったことなどあるんですかね。流石です。
さて、長くなりましたが、上記の調査を踏まえ、最後に『劇場版アニメ 忍たま乱太郎 忍従学園全員出動!の段』の話を例に挙げ、作品における鉄砲についてと、舞台の年代考察をします。
・映画冒頭での戦いで、銃声だけが響き、足軽たちは槍で応戦していた。
⭐︎調査通り!
・佐武衆到着のみんなの盛り上がり様
⭐︎マジでデカい戦力だから、虎若のパパだからというわけではない(T・M先輩は違うかもしれないが…)
・「怪我人続出で戦う気なんかなくしているだろう」
⭐︎銃声と大砲を打ち込むことで敵型の戦力を削ぐ、鉄砲を用いた戦国時代の戦略を匂わせる台詞。
・『園田村てお金持ちなんだなあ』
⭐︎戦闘集団を雇うのには金がかかる。きりちゃん……(摂津国の戦事情や懐事情については今後調査してみます)
・オオマガトキ城の鉄砲隊登場シーンの足軽と、最期猪名寺さんの治療を受ける足軽が一緒。治療を受けながら「村に帰って、田んぼやらんと…」と言っていたことから、日頃は農民の兵士が鉄砲を使っている。
⭐︎調査通り!鉄砲は短期間で訓練を詰む事ができる。
(・作品内で火薬めちゃくちゃ使ってる
⭐︎国内の火薬を使用していた?硝石の話、何かの回で見た気がする…火薬委員で管理する理由は、火薬が貴重というのもあるが「児童が危険だから」という理由が大きいのでは。)
(・キャラクター・火縄銃の名手の照星さんの存在
⭐︎「火縄銃が存在している」→1543年以降が妥当。ただ、照星さんがいつから火縄銃の名手なのか?雑渡さんは36歳だから、近い年齢なんですかね。個人的にちょっと年下くらいとかだと嬉しいです。19で売れっ子フリーの利吉先輩参照に、もしタメだとすると照星さんが19歳時点で少なくとも20年前には火縄銃あったことになるし、そしたら1560年あたり以降とか、もっと特定できるんですけど…前経歴不明の男…(涙)照星さんについては、今後一回調べてみたいです!ミステリアス・ビューティ・照星)
また、舞台の年代考察については、前回の考察でまとめた1467年〜1573年の中でも、
・1512年以降国内で鉄砲の生産が始まり全国に普及した(手に入れやすくなった)
・1550年戦で数百の鉄砲を用いた戦法があり、劇場版でも用いられていた
・特に1543年の火縄銃伝来以降、特に1549年あたりからデカ戦力として用いられた。
以上から、
火器(鉄砲)の面から考えると、1512年以降、特に1543〜49年あたり以降だと辻褄があいやすいという結論
に至りました。
T・M先輩の火器(小型カノン砲、ファルカン砲、カノン砲、小型火砲、カルヴァリン砲)についてや、個人的にウケた臼砲のキューちゃんには、またそのうち改めてまとめたいと思います!美少年が使うゴツい武器、ロマンすぎる。
超長くなりました、もし見て下さった方いたら、拙文失礼いたしました…
みてくださり、ありがとうございました!
【参考文献】
『劇場版忍たま乱太郎 忍術学園全員出動!の段』
https://www.touken-world.jp/tips/51520/
忍たま年代考察①〜推しの生きた時代〜
こんばんは。
この度キショブログを立ち上げました、きぬと申します。
大学で日本近世の武士の美学と思想について研究しています。江戸時代の歴史と文化が大好きです。
積りに積もったオタク好奇心と、大学で唯一培った情報収集力と、笹山兵太夫への執着心で、解釈や学んだこと、調べたことをまとめてブログに残そうかな、と思い、立ち上げました。Twitterの文字数では生きられない。
篠山の武家屋敷とかもこの前行ってきたので、そういう社会見学話も綴っとこうかな、と思います。コロナ落ち着いたら近江も行きたいです、コロちゃん、マジ空気読んでね。
そして、10年後も忍たまオタクしてる147238642倍絵が上手くなって漫画も描けるようになっている私、最高団兵本の解釈にでもこれを参考にしてください。よろしく!
…
…
…
加藤と笹山が生きてる証拠、ゼッテーーーーー掴んでやる!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
さて、ブログの始まりは『結局のところ兵ちゃんが生きてたのは一体どの辺の時代なの?』について考えていこうかなと思います。数回に分けて考えてみようと考えてます。よろしくお願いします。
第一回目は、年表を照らし合わせて、手短に「多分この辺では」と考えてみました。だって先は長いから…。
前提として、忍たまの生きた時代についてですが、神・尼子先生が「具体的に何年かは決めていない」(DVD−BOX4特典解説書)と明言されています(インターネッツ調べ)。しかし、本編のセリフなどから、
「室町」且つ「戦国時代」
ということはわかります。大ヒントにして最難関。滾る。
さらにさらに、今回はその前前提として、上記二つの時代の区分について簡単にまとめました。
●室町時代:1338年(足利尊氏征夷大将軍就任)〜1573年(幕府滅亡・足利義昭京都追放)。
●戦国時代:1467(応仁の乱)〜1590(豊臣による小田原征伐、全国統一の軍事活動の終了)。
という感じです。
室町時代末期は、戦国時代真っ只中とも言えますね。
あと、ソースが見つからなかったので定かではないですが、落乱舞台は「室町末期」だったと思います。確か。
…
このことから、
室町末期で戦国時代
ということで、忍たまの舞台は、
1467年(戦国時代始動)〜1573年(室町幕府滅亡)
の、106年間のどこか、と仮定することができるのではないでしょうか。
よって、本ブログでは忍たまの生きた時代について『1467〜1573の106年のどこか』という仮説のもと、さらにその106年間の間でより可能性のありそうな年代について言及していきます。
※室町・戦国の始終については諸説あるようですが、今回は軍事的な面で唱えられている年代を制定しました。合戦場の描写とかよく見られるし、上層部の政治の動向とかより視覚的にわかりやすいしね…
クソみたいな考察になりました。脳みそ激ヨワなので、何回も同じことを繰り返してしまう。もう一回言って整理します。
本ブログでは忍たまの生きた時代について『1467〜1573の106年のどこか』という仮説のもと、さらにその106年の間で、より可能性のありそうな年代について言及していきます。
ヨシ!
次回は、虎ちゃんやミキティ先輩の愛する『火縄銃』(照星さん)から、室町期の鉄砲の伝来・流通などを通して、時代考察を進めてみようと思います。次回は未定ですが、記事をアップしたらTwitterでまたお知らせします。
見てくださり、ありがとうございました!