首実検儀礼についてのまとめ

お疲れ様です!きぬです。

 

先日、図書館で『中世武家の作法』という面白そうな本を見つけたので、首実検とは何か、ということについて自分なりにまとめてみようと思います。

 

どうでも良いのですが、私、今まで「首実」だと思ってました。「実」なんですね。

恥ずかしい………。。。。自分の無知を晒します。勉強になりました。

 

 

 

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予習、頑張ってください。

 

 

首実検とは

まず私の中で「首実検て、結局なに!?」となったので、まとめます。

 

本来の意は大将が敵の物頭や諸奉行クラスの騎馬武者の分することの意。

これに対して、敵の大将または貴人・高位の人の首をの検分を「対面」、そして歩卒の雑兵らの首の検分を「見知」と称して区別していたのだが、広義には、首の検分の総称として「首実験」という語が使用されていた。

 

また、討ち取った敵の首を持ち帰る=論功行賞のための材料・証拠品とされており、

 

保元物語』『平治物語』に源為義や藤原信西が「首実検」をされた記述が見え、『平治物語絵詞』には、信西の首が検非違使に引渡され、獄門すなわち獄舎の門の棟の上に掛けられ、晒し首にされている場面がある。(古来から首は戦果として用いられていた。)

 

1441年、将軍足利義教を殺害した赤松満祐の首実検の場合では、政所執事伊勢邸の西向でなされた。

 

これらの資料では、

「儀式は、首を検分する大将は門内の二、三間奥に置かれた床几に腰を下ろす。首をお目にかける役人は門外に控える。門もないところは幕を打ち、中を巻き上げて内外の隔てをこしらえた。」

といったように、敵勢に首を奪還されないように警戒した中で行われた、という事がわかった。

 

首実検を行う場所は、多くは主戦場の近辺の寺などが当てられた。

室町期には、首実検の作法が完成されていた。

ということも記されていた。

 

 

 

討ち取られた首

 

戦場で討ち取られた首は、手柄の騎馬武者の鞍の取付の緒につけられて運ばれた。その際、大将首は左、葉武者の首は右に付けられた。

 

生捕にされた侍は、弓弦または箙の上帯で縛められ、軽輩には白縄が掛けられる。彼らの首を切る時は、敷皮を通常とは逆に白毛を後ろにして敷いた上に座らせ、首筋を前に出させて切る。

 

 

 

首化粧の手順⚠️ちょっとグロ

 

集められた首は、首実検に備えて首化粧が施される。(首装束ともいわれる)

手順は、

まず、首を水でよく洗い血や土などを洗い落とす。

髪を整えて元結にて髻(もとどり)を高く結い上げる。

顔に傷がついていれば、米の粉を振りかけて傷を抑える。

(お歯黒や白粉・紅をつけた高貴な身分の首であれば修復を行う)

「何某これを討取る、何某の首」と2行に書いた首札を鬢(びん)に結びつけ、首台か首坂の上に据える。

(夏季に首の切り口がジュクジュクする時は、ぬるでの葉を下に敷く)

 

以上が首化粧の作法のようです。

 

 

 

首実検の儀

 

さて、いよいよ戦国作法・『首実検の儀』についてです。

(前提として、儀式に参列する全ての将兵は鎧・兜を着用し、弓を持ち、矢を負い、出陣と同様の行装を整えます。これは、死者への礼儀とされています。)

 

 

右手に扇を持って床几に腰をかけた大将の後または左右には、部下の将兵たちが敷皮の上に両膝を伏せて前に足を組んで座す。

首の奏者(首をお目にかける人)は、少し距離を隔てて右の方に控える。

弓持の役人が座を立って弓を大将に奉る。

大将は持っていた扇を腰に差し、左手に弓を受け取ると、直ちに弓杖をつく。

この時弓は弦を内側にして、少し右の方へ向けられている。

弓持の役人が左へまわって退き、本座へ帰る。(以降、首実検の始まり)

奏者は首を台に据え、左の手にて首を取り、右の手で台を持って御前に進む。(この時の持ち方は、親指で耳を押さえ、台は他の指で持つ)

御前で両膝を立てた蹲踞(そんきょ)の姿勢でかしこまり、首を台に据えたまま下に置く。

あらかじめその場に用意された砂を少し摘んで首にまきかける。(「砂加持」という儀礼。)

髻を右手に取って引っ提げて、左手を切り口に当てながら、大将の顔をそっと見る。この時、正面をお目にかける事はしない。

この時、奏者は、首を討ち取った者の名前を披露し、見知っている首であればその名前を申し上げる。高貴な身分の首の場合、まず首の名前を申し上げる。

首の奏者と大将との距離は、およそ三杖(弓三張の長さ)。

大将は、床几を立ち離れ、首を左に見ながら弓を射るように足踏みをし、左手に弓杖をつき、右手位太刀の柄をかけ、少し刃を抜き掛け、左の目尻にて首を一見する。

奏者は首を台に戻し、左右の手で首と台を持ち、左へ巡って退出。

同時に大将も左からまわって床几に戻って腰をかける。

弓持ちの役人が進み出て弓を受け取って退出すると、大将は扇を残らず開き、左手に持って三度大きく仰ぎ、扇をたたんで右手に持ち直す。

首実の儀、終了。

 

また、身分秩序が重んぜられていた武家社会であった室町期、敵の首の身分で扱いや作法にも相違があった。

 

例えば、

・首につける首札の材質は、大将には桑の木、その他には椿か杉と定められていた。

・首札のサイズも、大将には長さ5寸幅2寸、諸士には4寸に1寸8分、雑兵には3寸6分1寸余と、それぞれ規格が異なった。

・首台も、高貴な首は供饗に据え、大将級の首は檜で作られた1尺2寸で四方に4寸2分の高さの足がついた首台に置かれた。諸士の首は、6寸で四方に2寸ほどの桟足を打った首板に置かれた。

・首実検そのものも、諸士以上の首はいかに数が多くても一つ一つ全ての首に大将に首実検の儀礼が取られたのに対し、雑兵の首は、「幕外に西向きにひとまとめに並べ置かれ、その前を大将が馬で北から南へ三度往復して検分する」と、簡略されたものであった。

 

首実検は、味方の戦果を確認し、士気をますます高めるとともに、武運拙く散った敵の戦死者に対する最大限の表敬の意が込められた儀礼であった

 

 

 

首実験を終えた首の行方

 

首実験を終えた首は、獄門にかけて晒し首にされたり、敵方に送り返されたり、残った首は北に集めて捨てられた。(「北」の字は「にぐる」(逃げる)と読むからで、東の方に捨てることはしないらしい。)(どういうこと!?)

 

晒し首になるのは、謀反者や悪虐非道を行なった者に対する見せしめの場合が多く、戦場の勇者の首のほとんどは敵方に送り返す慣わしであった。

 

送り返すとき、首を白絹で包み、高さ1尺2〜3寸、直径8〜9寸の首桶に納めて送った。首が錦の直垂を着た大将であった場合は、その錦衣を引き裂いて用いることもあった。

これも、死者の生前の身分・地位に対する配慮であった。

 

 

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首実検の実態を知った後に見る藤内先輩は趣深いですね。

 

 

 

まとめ

 

長!複雑!難!……という感じで、もし私が戦国時代の武人だったら泣いています。最早、首切られるポジションだったと思います。

シビアだな〜室町ライフ。。。。。。。。よかった、平成に生まれて。

 

しかし、首実検が、死者への敬意が込められた儀礼であった事がわかりました。おそらく、他の戦国作法にも大切な意味づけがされているんでしょうね、、、、、

そんな作法を学ぶ環境を整備している忍術学園、戦場という舞台を見据えているようで、悲しいような…かっこいいような…

 

でも、首実検だけでなく、様々な戦国作法を日々学んでいらっしゃる作法委員の皆さん、そして忍者の皆さん、かっこよくてキラキラしているだけでなく、スマートで最高ですね。

 

以上です。個人的には勉強になりましたが、内容が複雑且つ未知の世界すぎて、本をそのまままとめる形になってしまいました。読みづらかったかと思います。すみません…!

 

ここまで見てくださりありがとうございました!!!!!!!!!作法かっこい〜!

 

 

【参考文献】

『中世武家の作法』(1999年発行・二木謙一・吉川弘文館